米海軍の歴史上最後の戦艦の艦長– “私たちは忘れません”

戦艦ミズーリの最後の艦長であり、『歴史上最後の戦艦の乗組員』であったリー・ケイス艦長の悲報が2018年7月末に届きました。

私たちは忘れません:
戦艦ミズーリの退役式にて、ケイス艦長は、ケン・ジョーダン副艦長にペナントと星条旗の降納、そしてその後の乗組員の下船の最終命令を下し、乗組員1人1人が船から去るのをしっかりと見届け、一番最後に下船しました。乗組員は船の魂でありその一部でしたので、ケイス艦長は全員の顔を覚えておきたかったのです。
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就役旗を左手に固く握り締めながらメインデッキを最後に見回した後、舷梯を降りて行きました。1992年3月31日午前11時32分、埠頭に降り立ち、『歴史上最後の戦艦の乗組員』となり、戦艦の時代が幕を閉じました。この瞬間、戦艦ミズーリは世界で最後まで就役していた戦艦として、ケイス艦長は最後の戦艦の艦長として歴史に刻まれることとなりました。

ケイス艦長の家族は、花を受け取る代わりに戦艦ミズーリ保存協会への寄付を希望しました。

以下は戦艦ミズーリにおけるケイス艦長の功績を称えて2009年に紹介された記事です。

1990年6月13日は米海軍にとっては何も特別な日ではありませんが、ケイス艦長にとっては夢が叶った日となりました。この日、戦艦ミズーリが1986年5月10日に再就役を果たした時以来、再び戦艦ミズーリの艦長になったのです。健康上の理由で最初の艦長職は短い期間で終わりましたが、再び“マイティ・モー”に戻ってくるその時が遂にやってきたのでした。

戦艦ミズーリの復役後の三代目艦長John Chrnesky艦長は自身の退役を決め、後任を案じていましたが、ケイス艦長が現場へ戻ってきたため、これ以上の適任者はいない、と安堵しました。その頃、アイオワ級戦艦4隻の内2隻の戦艦ニュージャージーと戦艦アイオワの退役の準備が進められ、戦艦ミズーリも近い将来退役する計画でした。当時“マイティ・モー”は世界中を航海し、第二次世界大戦時の寄港地を巡ることになっていました。1945年9月2日に戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印式が行われ正式に第二次世界大戦が終結した場所である東京湾にも寄港する予定でした。1990年7月は戦艦ミズーリにとって忙しい月でした。サンフランシスコのフリートウィークとシアトルのシーフェアに参加し、ロングビーチに戻って親善航海の準備に取りかかりました。

その頃、アメリカ国防総省は、予算削減並びに人員削減の為、アイオワ級戦艦4隻全ての退役を発表しました。8月3日の金曜日、ケイス艦長は6ヶ月以内に戦艦ミズーリが退役となる旨の発表がまもなくあるという連絡を受けました。この事実は乗組員達が他から聞かされるのではなく、ケイス艦長から乗組員に対して直接伝えることが許されました。しかしながら、予期せぬ事態が起こりました。その同じ日にイラクがクウェートを侵攻し、その週末にはクウェート全土を制圧したのです。この連絡を受け、米国国防総省は戦艦ウィスコンシンと戦艦ミズーリの退役の計画は流動的であると発表しました。この発表はケイス艦長の戦艦ミズーリ退役の連絡と重なったため、新聞には“艦長と国防総省はビッグ・モーのモスボールに意見一致せず”という見出しが出てしまいました。クウェート侵攻の結果、両艦はペルシア湾で戦闘に加わる事となり、戦艦ミズーリの就役期間は延長されました。

戦艦ウィスコンシンは直ちにペルシャ湾に向けて出港しましたが、ミズーリは配備前に72時間待機することが命ぜられました。両戦艦は、再び危険な任務にあたることとなりました。両艦ともペルシャ湾での戦闘にはうってつけでした。共にトマホーク巡航ミサイルを32機搭載、16インチ(40.6センチメートル)の主砲の最大射程距離は26マイル(42キロメートル)あります。両艦7,600キロリットルの燃料を備え、他の艦へ補給する事が出来ました。大きなヘリコプター甲板を備えていましたので重輸送ヘリコプターによる他船への輸送が常時可能でした。遠隔操縦無人機(RPV)も利用できる改良をされ、主砲で視界外の長距離をより正確に狙う事も出来ました。

戦艦の持てる兵器を最大限に生かすためにひとつだけ課題がありました。16インチ主砲の発射制限の撤廃です。これは戦艦アイオワの第二砲塔の真ん中の砲身で起こった爆発を受けて制定されていました。事故調査はすでに終了していましたが、主砲の発射は制限されたままでした。海軍作戦部長は、主砲発射を行うためには完全な再訓練を義務付けることを明言していました。これは16インチ砲を扱う全ての乗組員は特別な訓練を受け、主砲の砲員に対して課された新しい要件を満たす必要があることを意味します。戦艦アイオワでの爆発は火薬の装填方法が原因のものでしたが、再び発射を行うことができるようにその手順の見直しが行われていました。

1990年11月13日にミズーリがペルシャ湾へ向けて出航した時点で16インチ砲発射の再訓練は重要優先課題になっていました。全ての砲員は再認証を受けるための最終段階にあり、制限付きで主砲の発射を認められていました。しかし1991年1月1日にバーレーンに到着する前にこの制限は撤廃され、ミズーリは戦闘準備が完全に整いました。米海軍は2隻の戦艦と共に朝鮮戦争以来の開戦の時を待ちました。

戦艦ウィスコンシンのデーヴ・ビル艦長は、戦艦ミズーリより数ヶ月早くペルシア湾に到着していました。その間ビル艦長はトマホークでの攻撃作戦を練り、艦歴は戦艦ミズーリの方が長いものの、経験値を考慮して戦艦ウィスコンシンがトマホーク攻撃作戦の指揮艦となり、戦艦ミズーリは対陸上砲撃の指揮艦となり、共同作戦の万全の準備が整いました。そして、1991年1月17日湾岸戦争が開始され、戦艦ミズーリよりペルシャ湾における初めてのトマホーク巡航ミサイルが発射されました。戦艦ミズーリは7日間で28発のトマホーク巡航ミサイルを発射しました。その後、16インチ主砲による艦砲射撃を開始し、2月5日にはサウジアラビアとクウェートの国境地帯でアメリカ海兵隊の援護のための砲撃を行い、続いてイラク軍拠点に向けて砲撃を行いました。この作戦の成功により多くのイラク兵が翌朝アメリカ海兵隊に降伏し、その翌朝のUSAトゥデイのトップ記事になりました。

続いて戦艦ミズーリはファイラカ島とクウェートシティを攻略する部隊に合流するための移動を開始しました。その間にUSSトリポリとUSSプリンストンは触発機雷によって損傷を受けました。代わりに戦艦ミズーリのフライトデッキを利用してトリポリに積載されていたH-53の重量物輸送ヘリコプターで掃海活動を続ける事が出来たため、損傷による作戦の遅れを最小限に抑える事が出来ました。そして、戦艦ミズーリはファイラカ島へ16インチ主砲による艦砲射撃を数日間行い、それによって海兵隊は同島の攻略に成功しました。

その次にはクウェート沿岸において敵を欺く陽動作戦が実行されました。この作戦においてミズーリは陸地に向けて16インチ砲を数百発発射し、上陸部隊の到着が間近であると思わせることによって、敵部隊の動きを封じ込めました。この湾岸戦争において戦艦ミズーリの主砲からは800を超える砲弾が発砲され、12の機雷を爆破、28発のトマホーク巡航ミサイルを発射しました。シルクワーム対艦ミサイルに攻撃を受けた際は、イギリスの駆逐艦グロスターがミサイルを撃墜しました。戦艦ミズーリは戦争における能力を再び証明すると、半年ぶりの5月13日に戦地よりロングビーチに凱旋しました。

そして戦艦ミズーリと戦艦ウィスコンシンは遂に退役を果たす事となりました。戦艦の維持は費用面でも非常に厳しく、アメリカ国防総省も予算を削減したかったのですが、アメリカ大統領は戦艦ミズーリに異なる計画を言い渡しました。ジョージ・ブッシュ大統領は、戦艦ミズーリに真珠湾攻撃50周年記念式典に参加するという最後の任務を伝えたのです。

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この大統領令により、他の戦艦は全て退役する中、戦艦ミズーリは就役の状態を維持しました。歴史は繰り返されます。ハリー・トルーマン大統領は第二次世界大戦後に他の戦艦がモスボール状態となる中、戦艦ミズーリだけは就役を継続させました。そして今度はジョージ・ブッシュ大統領が、真珠湾攻撃50周年記念式典参加の最後の任務のため戦艦ミズーリのみを退役させなかったため、ミズーリは戦艦の歴史上またしても“孤高の戦艦”となりました。そして、式典では正式に第二次世界大戦が終結した場所として大統領をはじめ来賓を迎えました。

戦艦ミズーリの全ての乗組員もこの事を大変誇りに思いました。1941年12月7日の真珠湾攻撃で亡くなった人々に敬意を表し、歴史的に重要な場所として世界中に向けてこのような形で参加出来た事はこの上なく光栄であり素晴らしい出来事でした。

この式典に向けての準備期間は数ヶ月にも及び、1584名の乗組員ひとりひとりが、この式典に携わる重要な一員であると感じていました。自分達が最後の戦艦の乗組員であり特別であると自覚し、この式典で戦艦ミズーリは脚光を浴びるべきと考えていました。同じ艦隊のどの船の乗組員よりもピンと背筋を伸ばして誇らしく感じていました。

最後の航海へ向けての準備は問題なく進んでいましたが、ロングビーチを出発した最初の日には荒波の航海を強いられました。しかしパールハーバーへの予定通り到着するためには、荒れた海を避けて通ることはできませんでした。2日目、6メートルを超える高波は戦艦ミズーリの第二砲塔にまで到達しました。メインデッキの設備はダメージを受け、備え付けの2隻のボートは、ボートを上げ下げするためのダビットから外れて甚大な被害を受けました。

4日目はようやく天候にも恵まれ、パールハーバー到着まであと1日となりました。乗組員たちは上等兵曹の指示の下臨機応変に対処し、24時間以内にあのような悪天候に見舞われたようには全く見えない元の状態へと戻りました。大統領より指示を受けた旗艦として、他の船よりも見栄えが悪い状態で式典に臨む事は、乗組員としてありえない事でした。そして戦艦の乗組員である誇りを持ってその日を迎えました。

追記:被害を受けた26フィート(約8メートル)の2隻のボートは、ミズーリから下ろされて湾口にあるドライドック#4の近くの空き地に置いておかれました。その後2008年になってボートが改めて発見され、ケイス艦長の言及によりミズーリのボートである事が判明し、その所有権が戦艦ミズーリ保存協会に移されました。

1991年12月7日の朝、アリゾナ記念館で式典が始まりました。大統領は、50年前の真珠湾攻撃の際のアメリカ国民の勇気と忠誠心をたたえ、犠牲となった尊い命と彼らの勇気を世界が忘れることはない、と述べました。乗組員と共に沈む戦艦アリゾナの海面に大統領と大統領夫人がレイを献花し式は終了しました。レイを置くために使用された銀のトレーは戦艦ミズーリから貸し出されたものが使用されました。

アリゾナ記念館での式典に入りきらなかった州知事、上院議員、議会代表など200名ほどのゲストの受け入れを戦艦ミズーリで行いました。アリゾナ記念館での式典が終了すると、大統領とその一行は戦艦ミズーリへ向けて出発しました。

“大統領が乗艦します”とアナウンスが流れると、それはまるで電流が戦艦内をかけめぐるかのようでした。今までの全ての準備が報われた瞬間でした。大統領のリクエストにより、ケイス艦長は海軍高官として出席しました。ゲストにとって艦長の存在は、このすばらしい戦艦とその優秀な乗組員達の象徴のように映りました。セキュリティは強化されていましたが、大統領は乗組員たちからも間近で目にする事が出来ました。

大統領は降伏文書調印式の会場でテレビの全国放送を通じて国民に向けて演説をし、その後艦内を見学しました。大統領のお気に入りの場所は04レベルの艦橋でした。艦長の椅子に座ってメインデッキにいる乗組員たちに手を振り、第一、第二砲塔の砲身の大きさに関してコメントしました。数時間の滞在の後、ブッシュ大統領と大統領夫人は最後に降伏文書調印式の会場で立ち止まり、そして戦艦を後にしました。大統領が乗艦している間、米国大統領旗がメインマストに掲揚されており、それは戦艦の歴史上3度目のことでした。乗組員たちはそれを甲板から見上げ、特別な雰囲気に浸っていました。この名誉ある出来事は、戦艦とその乗組員とはどのようなものであるかを的確に表すものとなりました。そして歴史に残る最後の戦艦が迎えた歴史に残る瞬間に花を添える出来事となりました。1584名の乗組員全員が忘れる事のない誇らしい思い出となりました。

そしていよいよ母港に戻る時がやってきました。パールハーバー出発は嬉しくもあり悲しくもあり様々な感情が入り混じっていました。今回の出来事を皆誇りに思いましたが、また一方で、本土に戻ってしまえば、ミズーリがもうそれ以上航海に出ることはないという事も皆知っていました。帰航途中、ケイス艦長は艦橋の椅子に座り、自身と戦艦ミズーリが現役艦隊と共に最後の航海をしている現状と、この次には退役があることについて考えました。そしてキャリアを締めくくるにはこの上ない最後になったと思いました。湾岸戦争での勝利に貢献し、世界中が見守る中真珠湾攻撃50周年記念式典に大統領と共に参列するなど、これ以上はない経験です。

あとは世界の戦艦の最後の退役、その時を残すのみとなりました。

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1992年3月31日、愛された歴史的戦艦ミズーリに別れを告げるためにロングビーチ海軍造船所の埠頭に7000人以上が集まりました。パールハーバーから戻った後に職務から離れていた乗組員たちも、この最後の式のためにかけつけました。乗組員であった海兵隊も、星条旗を運ぶ名誉ある最後の任務のためにミズーリに戻ってきて、戦艦の時代の一翼を担った海兵隊としてのプライドを誇示しました。3つの戦争それぞれに従事した戦艦ミズーリの多くの元乗組員がこの式のために集まっていました。その場は、素晴らしき良き思い出、旧友との再会、成し遂げた偉業に対する誇り、最後の日が訪れた悲しみなどで満ちていました。

ゲストスピーカーはミズーリ州選出のアイク・スケルトン下院議員でした。彼は、再就役の時にも式典に参列し、常に戦艦ミズーリを支援していました。最後の名誉あるスピーチを行う人物として、このミズーリ州の代表者はふさわしい人物であったといえます。スピーチは素晴らしい戦歴とそれを支える素晴らしい乗組員を称えるものでした。スピーカーはその場の出席者の気持ちをわかろうと努めましたが、実際に戦艦に乗って航海を共にした者でないとその場での気持ちを理解することは出来ないでしょう。戦艦に従事した乗組員たちはその歴史の一部となり、この素晴らしい戦艦はこれから二度と戦いに出る事はありません。そして最後の幕が閉まります。

乗組員たちが去った後、ケイス艦長は甲板部士官のウェス・キャリー少佐に“クウォーターデッキ任務終了せよ!”と最終命令を下しました。少佐は航海日誌に署名をし、当直士官とメッセンジャーとともに船を下りました。そしてケイス艦長を残すのみとなりました。ケイス艦長は就役旗を左手に固く握り締めながら、最後にメインデッキを見回した後、舷梯を降りていきました。1992年3月31日午前11時32分、埠頭に降り立ち、『米海軍の歴史上最後の戦艦の乗組員』となり、戦艦の時代が幕を閉じました。この瞬間、戦艦ミズーリは世界で最後まで就役していた戦艦として、ケイス艦長は最後の戦艦の艦長として歴史に刻まれることとなりました。

 

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投稿者: senkanmissouri

歴史的な過去と現代の技術の共存する船、戦艦ミズーリは、訪れた人々に歴史の痕跡と真実を巡る機会を提供する記念館として一般公開されています。戦艦ミズーリ記念館は展示物、過去の記録、ツアーなどを通じて、皆さまに艦上での生活について詳しく学んでいただけます。現在公開されている戦艦上の多くの部分は、ミズーリ号が就役していた当時の状況をほぼ忠実に再現しています。当時の戦艦内の設備や生活の様子などをご自身の目で確かめに、ぜひご来館ください。

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