第二次世界大戦時、大日本帝国海軍の航空機搭載爆弾は多様でした。最近の調査結果には、1945年4月11日の沖縄戦下に戦艦ミズーリとアメリカ任務隊を攻撃した第五建武隊の特攻機には507キロの通常爆弾、五〇番通常爆弾二型が搭載されていたと記されています。
五〇番通常爆弾二型は全長2,356mm、直径450mm、約221キロの九八式爆薬、または下瀬火薬を搭載していました。
(1945年12月米海軍訪日技術使節団報告参照)
九八式爆薬は60%のトリニトロアニソールと40%のヘキシルの混合爆薬でTNTをトリニトロアニソールで置き換えて作られました。純粋ピクリン酸が成分の下瀬火薬は大日本帝国海軍技師の下瀬雅允が実用化した爆薬で、日露戦争時に帝国海軍が使用しました。その当時他国海軍の用いていた炸薬よりも爆発力は強力でした。
涙滴型の爆弾は12.7mm厚、先端部は139mm厚の鍛鋼製です。全体はグレー、緑色の先端部と茶色い縁取り、そして尾翼は緑色に塗装されています。信管は九七式二号弾頭発火装置と一五式弾底発火装置二型です。
パイロットはターゲットを定めると爆弾安全装置を解除し最高速度で敵艦船めがけていきました。(アメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官報告書参照)
1945年4月11日に、製パン担当兼ボランティアのカメラマン“バスター”キャンベル氏によって撮影された写真の拡大図。
上の写真では、1945年4月11日に戦艦ミズーリを攻撃した爆弾搭載の特攻機の機体下に黒い影がみてとれます。しかしながら、衝突時に爆弾が爆発することはなく、その原因は不明のままです。
「製パン担当兼ボランティア」というのは「志願兵で経理補給科だった」ではないでしょうか?
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キャンベル氏は製パンの担当(ベイカー)でしたが、ボランティアとして船内でカメラ撮影(フォトグラファー)も行っていました。
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ミズーリ艦上からは特攻機の痕跡とアリゾナの両方を見ることができ、あの戦争の始まりと終わりを象徴する場所でもあると見学時に思いました。
当然、日本の降伏文書調印の現場でもあり、平和の尊さが詰まっています。
再度の訪問を楽しみにしています。
今度はツアーではなく個人で、ゆっくり時間をかけてじっくりと。
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2019年11月下旬に見学いたしました者です。初めての訪米でした。
体当たりした第5建武隊の零戦について詳細に調査いただき、敬服いたします。
個人の趣味ながら、この体当たり機の機番号・マーキングを知りたいのですが、明らかになりますでしょうか?
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コメントありがとうございます。残念ながら当館では機番号の情報はなく、鹿屋航空基地資料館へも問い合わせましたが残念ながら同じく情報なしとの事でした。
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そうでしたか、日本側にも記録がないのですか。ご返信ありがとうございました。
ミズーリ体当たり機の事のみの関心で初めてハワイに行きましたが、その際のツアーガイドさんの話から
ハワイと日本の関係、米国国民としての日系人の方々の歴史、日系人の方々から見た戦後日本のあり様、さらに、王朝時代のもともとのハワイの人々の文化などいろいろと関心事が増えました。
またいつか、記念館へ再度訪問したいと思います。
その際にはもう一度ミッチーさんの解説を聞きたいと思います。
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